あけましておめでとうございます。読んでいて楽しくなる一冊を今回はご紹介。
『「勘違い」だらけの日本文化史』(淡交社)。
本書では有職故実の史料をもとに、日本文化についての考察が行われる。網羅している古代から近代のうち、特に平安時代が多く取り扱われていた。興味のそそられた一部を紹介してみたい。
平安貴族の乗った「牛車」。のんびりゆっくり走るイメージがあるが、文献を見てみると牛車でレースをするほど速い乗り物であったことがわかるという。
鎌倉後期の「駿牛絵詞(すんぎゅうえことば)」には、賀茂の祭の白川中将伊長と二位法印御房俊玄のレースで、牛が溝の泥を蹴り上げ泥まみれになっている様子や、やり縄が切れても牛を制御しつづける果敢な牛飼童(うしかいのわらわ)の様子が記されているのだそう。名牛と名童あっての勝負だったようだ。なお、牛飼童と言うが、牛飼はいくつになっても童で、中には高齢の童もいたそうだ。
風のように走る足の速い優れた馬を「駿馬」というが、牛は「駿牛」と言う。そんな「駿牛」の引く牛車は快適な乗り心地とは無縁だったようだ。乗るのは一苦労だったようである。
平安時代の色男・ 在原業平。都で女性スキャンダルを起こし東下りとなったのだが、その理由についての考察。
鎌倉前期の無名抄に、女性の兄たちが怒りのあまり、業平の髻(もとどり・ちょんまげの事)を切ってしまったという記載があるそう。これは一大事である。なぜか?
当時の人々は冠や烏帽子をかぶっているのだから、何も問題はないように思える。だが冠も烏帽子も、実は髻を使って中でずれないように固定している被り物なのである。平安の都では、頭に何もかぶらず人に会う事はマナー違反とされた。つまり、「ちょんまげをきる」=「人前にでられなくなること」だったのである。人に会うことのできなくなった業平は髪が伸びてくるまでの間、東下り、となったのである。
しかし、ここで素朴な疑問が浮かぶ。加齢でやむなく頭が薄くなってきてしまった場合はどうしていたのか? 衝撃の事実に思わず声を上げてしまった。ぜひ、詳細を本書にて確認頂きたい。
他にも源氏物語の中で不美人と紹介される末摘花が、実は現在のハーフタレントのような美人だったのではないかとする面白い考察も登場している。末摘花の見方が随分変わる。こちらも必見。
日本文化の常識と思っていたことが、いかに現代人の勘違いや思い込みだらけなのかと考えさせられた。読んでいると原典にもあたりたくなってくる。おすすめ!